29期生 三森茂希 整体には何か響くものがある。肉体、そして心へと、深く深く響くものがある。 そんなことを仄かに感じ始めている。 それは、今まで僕が触れてきた療術やマッサージにはないものである。
では、その響くものとは何であろうか。何故響くのだろうか。そんなことを考えてみた。 僕の知るものでそれを表現するならば、“整体には詩がある”と言えそうだ。 日常と平行して流れてゆく散文ではなく、日常に対して垂直に屹立する、詩がそこにはあるように思える。
かつて、作家の稲垣足穂は言った。「詩とは、歴史性に対して垂直に立っている」と。 日常における一瞬、そして一点に、直立しているのだ。整体にも、一瞬、そして一点がある。 時間の流れに沿ってただ技術を積み重ねてゆくのではなく、その流れの中には、命と直接触れ合うような、一瞬があり、さらには命と触れ合う一点、つまり処、位置、角度、構え、といったものがあるのだ。 そして、その一瞬、その一点は、永遠無限なる何ものかを孕んでいる。直立する何ものかを孕んでいる。 それ故に整体は、肉体、そして心へと、深くまで響くのではないだろうか。 もし、その一瞬を逃してしまったならば、その一瞬は二度とやって来ない。もし、その一点を逃してしまったならば、手に入れた一瞬を生かすことはできない。 その瞬間、ひとつの命と向き合ったものにしか奏でることのできない詩があるのだろう。 それを奏でるチャンスは一度だけだ。そしてその響きは唯一無二のものである。
井本整体で、“いつなんどきでも命に対する礼を忘れない”ということを繰り返し言う理由は、そういったところにあるのではないだろうか。 ある一点において命と命がぶつかり合うのである。それは半端な気持ちでできることではないだろう。それに、もし半端な気持ちでぶつかり合ったとすれば、相手の命に傷をつけることにもなりかねないのだ。 何の考えもなしに言い放った言葉が、人を深く傷つけることがある。 何気ない行動が人のからだを傷つけてしまう事がある。 詩は、人の命に揺さぶりをかけ、よい方向へと流れを変えてゆくこともあれば、揺さぶりをかけ、それを壊してしまうことだってあるのだ。 無意識のうち、何となく産み落としてしまった詩。その詩も、その一瞬しか奏でられることのない特別な響きを持っている。 それを、なかったことにする、ということはできないのである。
整体は人の命にまで響く。それ故に、人の歴史、流れをも変えてゆく。 しかし、そうであるからこそ、中途半端な気持ちで行なってはならないのだろう。 命に対する礼をいつなんどきも忘れてはならないのだろう。 そして、変化を楽しむものとしても、真剣さを決して忘れてはならないのだろう。 |
